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浦和地方裁判所 平成元年(行ウ)22号 判決 1992年1月24日

原告

福田幸雄

右訴訟代理人弁護士

林秀信

田島義久

右訴訟復代理人弁護士

斉藤巌

被告

所沢労働基準監督署長

志村卓勇

右指定代理人

小林政夫

外六名

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は、原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告が、原告に対して平成元年四月二八日付でした労働者災害補償保険法による障害補償給付を支給しない旨の処分を取り消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  原告は、昭和一六年から同一九年まで中外鉱業米子鉱業所で坑夫として稼働し、同二〇年からアイサワ工業株式会社経営の埼玉県入間郡日高町所在の日高作業所で(以下「アイサワ工業日高作業所」という。)同五七年六月一九日離職するまでの間、坑夫として稼働していたものである。この間の同人の坑夫としての職歴は、別紙坑夫職歴一覧表のとおりである。

原告の右坑夫としての職場は、振動、爆発音による騒音の伴う典型的ないわゆる騒音職場(以下「騒音職場」という。)であった。

2  原告は、昭和六一年六月二一日倉敷市所在の水島協同病院において、医師寺澤和貴により両側感音性難聴の診断を受けた。原告の難聴の程度は、同六三年四月一四日から同年一〇月七日までの検査において、最終平均聴力が右80.1デシベル、左76.9デシベルであり、両耳の聴力が四〇センチメートル以上の距離では普通の話声が理解できないという症状を呈し、これは労働災害補償保険法施行規則一四条別表第一障害等級表に定める第七級の二に該当する障害である。

右原告の両側感音性難聴は、感音性のものであり、同人の家族に遺伝的素因が認められないこと、同人の年齢を考慮に入れても程度が著しく重いこと、同人に聴力障害を招来する病歴がないことから、右1記載の騒音職場で長年にわたって稼働したために生じた業務による騒音性難聴と認められる。

3(一)  原告は、昭和六二年七月二〇日倉敷労働基準監督署に難聴による障害補償給付の申請(以下「本件申請」という。)をし、本件申請は、昭和六二年八月五日所沢労働基準監督署に受理された。

所沢労働基準監督署長は、平成元年四月二八日本件申請について、労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)四二条により消滅時効が完成したことを理由として不支給の決定(以下「本件処分」という。)をした。

(二)  民法七二四条の類推適用

(1) 労災保険法第四二条の消滅時効は、民法七二四条の類推適用により、労働者が、当該障害の業務起因性を認識したときから進行すると解すべきである。

障害補償給付の対象となる障害の中には、その業務起因性が明白でなく、専門的、医学的な鑑定診断を経るなどして初めて被災害者が業務起因性を認識するものもあり、このような場合、業務起因性を認識する前に補償給付を請求することは全く不可能である。このことは、不法行為の被害者において、加害者、損害の発生、加害行為の違法性及び加害行為と損害の因果関係のすべてを認識するまでの間、加害者に対し、損害賠償請求をすることが事実上できないのと同様であり、この点で、障害補償請求権は、不法行為に基づく損害賠償請求権に類似した請求権であるから、民法七二四条の類推適用により、被災労働者が、当該障害の存在及び業務起因性を認識したときから進行すると解すべきである。

(2) 原告は、昭和六一年六月二一日水島協同病院において両側感音性難聴の診断を受け、初めて自己が騒音性難聴であることを知った。

(3) 本件申請は、右昭和六一年六月二一日から五年経過する前に行ったものであるから、本件処分は違法である。

(三)  信義則違反

(1) 原告は、昭和五七年五月一〇日岡山労災病院において古本雅彦医師による聴力検査を受け、その際同医師は、原告には両耳共中等度の難聴がある旨診断をしている。しかし、同医師は、原告に対し、原告の聴覚にさしたる異常はない旨説示したのみで、右難聴について特段の注意、指示を与えず、また、右の事実を知っている関係行政機関も、難聴について原告に何の示唆も与えなかった。

(2) 被告側が、原告に右知りえた事実を告知し、労災補償給付の権利行使を促すだけで、原告の権利行使が可能であり、時効完成を阻止することが可能であったのに、原告に右難聴の事実を秘匿しまたは告知せず、その結果原告の権利行使の機会を奪ったことは被告側の重大な義務違反である。しかるに、被告が原告の権利の時効消滅を主張することは信義則に反するものである。したがって、本件処分は違法である。

4  原告は、平成元年六月二一日埼玉労働者災害補償保険審査官に対し、審査請求の申立をしたが、平成二年一月一六日右審査請求は棄却された。

そこで、原告は、同年三月一日労働保険審査会に対し、再審査請求の申立をしたが、同審査会の裁決がされないまま、同年六月一日が経過した。

5  よって、原告は、本件処分の取消しを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実中、原告が、昭和五七年六月一九日アイサワ工業日高作業所で離職したことは認め、その余の事実は知らない。

2  同2の事実中、原告が、昭和六一年六月二一日水島協同病院において両側感音性難聴の診断を受けたこと、原告の難聴の程度が、昭和六三年四月一四日から同年一〇月七日までの検査において、最終平均聴力が右80.1デシベル、左76.9デシベルであったことは認め、その余の事実は知らない。

3  同3(一)の事実は認める。同(二)の主張は争う。同(三)(1)の事実は否認し、同(2)の主張は争う。

三  被告の主張

1  除斥期間

(一) 労災保険法四二条の規定は、同法上の障害保険給付請求権の除斥期間による絶対的な消滅を定めたものである。

すなわち、本件訴訟で問題となっている障害補償給付請求権は、会計法三〇条所定の国に対し具体的な保険給付を請求する権利や不法行為による損害賠償請求権と異なり、業務上の事由または通勤による負傷、疾病、障害又は死亡(以下「労働災害」という。)に遭遇した労働者をおしなべて救済するという社会的要請に基づく社会保険政策上の見地から、当該労働災害につき使用者側の帰責事由の有無を問うことなく、補償給付を行おうという社会保険政策上の見地から特に制度化された公法上の権利である。労災保険法四二条が補償給付請求権を五年の経過により消滅するとしたのは、公法上の早期確定、平等で画一的な処理の要請から、個人的な意思を尊重する時効援用制度を排斥し、期間の経過をもって絶対的な消滅事由としたものである。また、労働安全衛生法上事業者に課せられた労働者の稼働環境の測定記録や労働者の健康診断記録の保存期間は同規則により三年ないし五年と定められており、労働者が最終職場を離脱してから五年経過すれば、右各記録が滅失してしまう。その結果、労働者が最終職場を離脱してから五年経過後に障害補償請求を許すと、当該請求に係わる証拠の散逸も懸念され、調査に困難を来す等大量処理の障害補償給付の事務を複雑化させ、支給手続を停滞させることになる。そこで、法は、権利の絶対的な消滅の制度を設けたのである。したがって、労災保険法四二条は、除斥期間を定めた規定と解すべきである。

(二) 補償給付請求権は、労災補償の事由が生じた時から除斥期間が進行すると解すべきところ、請求原因記載の騒音性難聴については、その症状が固定した最終騒音職場を離脱した時がこれにあたる。

2  時効期間の起算点

(一) 消滅時効は権利を行使できる時から進行する。

障害補償給付は、労災保険法一二条の八、労働基準法七七条所定の支給事由が生じたときから行使することができ、本件騒音性難聴の場合、原告の症状が固定した職場離脱時が右各条所定の「労働者が業務上疾病にかかり、なおった時」となるので、消滅時効期間も右職場離脱時から進行する。

(二) 民法七二四条は短期消滅時効の起算点を損害及び加害者を知った時としているが、これは、一般に不法行為が偶然遭遇する第三者によるものであり、また、故意による場合隠密裡に行われることが多いので、加害者あるいは損害を直ちに知りえないことから定められた被害者保護のための特別規定である。これに対して、労災障害補償請求権の場合、労働者は、使用者、職場の作業内容、作業環境を当然認識しているので、加害者及び損害を直ちに知りえるし、業務起因性についても常識的判断で嫌疑を抱くことは十分可能であって、速やかに専門医の診断を経て権利行使をすることが可能である。労災障害補償請求権と不法行為による損害賠償請求権を同視することはできず、民法七二四条を類推適用すべきではない。

また、労働者は、労災障害補償請求権行使について、最初の請求手続を行いさえすればよく、自ら積極的に証拠を収集する必要はない。これに対し、不法行為による損害賠償請求権は、被害者は自己の責任負担で収集した証拠に基づき、訴え提起が合理的に可能である程度に賠償請求権の存在を確知しなければ行使できないのであって、この点でも労災障害補償請求権は、不法行為による損害賠償請求権とは異なるので、民法七二四条を類推適用すべきではない。

3(一)  原告は、昭和五七年六月一九日アイサワ工業日高作業所で離職した。原告の離職により、原告の難聴の症状は、固定した。

(二)  昭和五七年六月一九日から五年後の昭和六二年六月一九日が経過した。

(三)  したがって、本件申請は除斥期間または時効期間経過後に行われた。

四  被告の主張に対する認否

被告の主張1(除斥期間)及び同2(時効の起算点)の主張は争う。同3(一)の事実のうち、原告の離職により、原告の難聴の症状が固定したことは否認し、その余の事実は認める。同(三)の主張は争う。

第三  証拠関係<省略>

理由

一請求原因1について

1  請求原因1の事実中、原告が、昭和五七年六月一九日アイサワ工業日高作業所で離職したことは当事者間に争いがない。

2  右争いのない事実、原告本人尋問の結果及び<書証番号略>によれば、次の事実が認められる。

原告は、昭和一六年から同一九年まで中外鉱業米子鉱業所で坑夫として稼働し、同二〇年からアイサワ工業日高作業所で同五七年六月一九日離職するまでの間、坑夫として稼働していたものである。この間の同人の坑夫としての職歴は、別紙坑夫職歴一覧表のとおりである。

原告の右期間における坑夫としての作業内容は、道路、鉄道のトンネル、用水、ダムの水路、鉱山の坑道等で、ダイナマイトを仕掛ける孔をくり、発破をかけ、土砂を出し、支保工を入れ、再度土砂をきれいに出すというもので、その所要時間は平均八時間、これを一日二サイクルで行うものであった。右の作業の過程で、原告は、削岩機、ピックを使用していた。削岩機は、腹部にあて、体全体で押して使用するもので、使用の際には工具本体から強烈な音が出て、物を言っても、近くにいる相手にも聞こえない位であり、原告は、これを一サイクルについて平均三時間程度使用していた。ピックを使用して石をならすときも同様に使用の際には工具本体から強烈な音が出て、物を言っても、近くにいる相手にも聞こえない程であった。また、一日二回ダイナマイトで発破をかけるときも二〇〇メートル位離れていても強烈な爆発音で現場を離れても耳鳴りがするような状況であった。

以上のように、原告は、坑夫として稼働中、長時間右の騒音に暴露されていたものである。

二請求原因2について

1  請求原因2の事実中、原告が、昭和六一年六月二一日水島協同病院において両側感音性難聴の診断を受けたこと、原告の難聴の程度が、同六三年四月一日から同年一〇月七日までの検査において、最終平均聴力が右80.1デシベル、左76.9デシベルであったことはいずれも当事者間に争いがない。

2  右1の争いのない事実と<書証番号略>及び原告本人尋問の結果によれば、次の事実が認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

(一)  原告は、昭和五七年六月一九日に離職した後、昭和五八年五月九日から岡山労災病院で振動障害の診察治療を受けたが、その際、同月一〇日に聴力検査を受けた。その検査結果では、平均聴力喪失が右三〇デシベル、左三六デシベルで両耳共中等度の難聴であるとされた。なお、その後、オージオメータの日本工業規格の改正があったため、昭和六一年三月二六日に聴力障害に係る障害等級認定基準の一部改正が行われたが、各都道府県労働基準局においては、旧日本工業規格に適合するオージオメータによる測定値は、これに一定の数値を加えることによって新日本工業規格に適合するオージオメータの測定値とみなす運用がされており、その運用によれば、右検査結果は、新日本工業規格に適合するオージオメータの測定値としては、右三九デシベル、左四五デシベルとみなすことができる。

(二)  原告は、昭和五二年ころから、耳が聴きづらくなり、他人からも耳が遠いのではないかとの指摘を受けていたが、昭和六〇年ころまでは日常生活に支障を来すこともなかった。しかし、昭和六〇年ころから耳鳴りが激しくなり、急に耳が遠く感じるようになった。そして、昭和六一年六月二一日、振動病で入院中の水島協同病院において、耳鼻科の診察を受け、両側感音性難聴の診断を受けた。右の診察の際の聴力喪失は、右72.5デシベル、左88.7デシベルであった。なお、原告は大正一四年五月一六日生で、当時六一歳であった。

(三)  右水島協同病院における昭和六三年四月一四日から同年一〇月七日の検査によれば、原告の最終平均聴力喪失は、右80.1デシベル、左76.9デシベルであり、両耳の聴力が四〇センチメートル以上の距離では普通の話声が理解できないという症状で、労働災害補償保険法施行規則一四条別表第一障害等級表に定める第七級の二に該当する障害である。

(四)  右の水島協同病院における診察結果によれば、原告の難聴について、以下の事実が認められた。

(1) 聴力の気導値、骨導値がほぼ一致して低下しているため、感音性の難聴である。

(2) 聴力障害の程度が左右ほぼ同等である。

(3) 聴力損失は、高音域で大きい。

(4) 中耳炎を疑わせる所見がなく、また、鼓膜も正常である。

(5) 中耳炎を疑わせる病変はない。

(6) 遺伝性の難聴を思わせる所見もなく、そのような家族歴もない。

3  ところで、<書証番号略>によれば、労働省労働基準局における騒音性難聴認定基準によれば、次の要件をいずれも満たす難聴は、業務上の騒音性難聴として取り扱われているし、右のような判断基準は、騒音性難聴に関する医学的な一般的認識にも合致していることが認められる。

(一)  著しい騒音に暴露されている業務(作業者の耳の位置における騒音がおおむね八五デシベル(A)以上である業務)に長期間(おおむね五年又はこれを超える期間)引き続き従事した後に発生したものであること

(二)  鼓膜又は中耳に著変がないこと

(三)  感音性難聴の特徴を示すこと

(四)  聴力障害が低音域より三〇〇〇ヘルツ以上の高音域において大であること

(五)  中耳炎等による難聴でないと判断されるものであること

4 そして、原告の難聴は、前記一2の認定事実によれば、右3(一)の要件を満たしていると解されるし、前記2(四)のとおり認められた原告の難聴の状態は、右3(二)ないし(五)の要件も満たしているから、前記一2の業務に起因した騒音性難聴と認めるのが相当である。

5  もっとも、<書証番号略>によれば、志多享昭和大学医学部耳鼻咽喉科教授は、一一年間にわたって、二万九八七〇例の騒音下の従業員の中から、配転により騒音職場から離脱させた三六〇例について、四年後の聴力の推移を観察した結果、低音・高音域各平均聴力レベルにおいて、一〇デシベルを超える変化を認めるものは一例もなく、五デシベルを超え一〇デシベル以内の変化を示すものは低音域で一一例、高音域で一八例みられるが、これは被検者に比較的高年齢者が多いという年齢的要因によると判断されるとの研究結果を発表し、進行性又は遅発性の騒音性難聴の存在について否定的見解を示していることが認められる。そして、<書証番号略>によれば、労働省労働基準局においても、騒音職場離脱後は、騒音性難聴は増悪しないとの見解が一般的見解であるとされていることが認められる。

そうすると、原告の聴力喪失は、前記2(一)ないし(三)のとおり、昭和五八年五月の岡山労災病院における検査結果よりも昭和六一年及び昭和六三年の検査結果のほうが増大しているが、このような聴力損失の増大は、騒音職場離脱後のものであるから、騒音性のものとは解されず、加齢等による他の要因によるものと推認せざるをえない。

なお、このように判断しても、前記2(二)の認定によれば、右のような原告の聴力喪失の増大は、昭和六〇年ころから開始したものと認められるから、それ以前である昭和五八年五月における前記2(一)の原告の聴力損失が、前記4判示のとおり、業務に起因した騒音性難聴によるものであると認定することを妨げるものではない。

三請求原因3及び被告の主張について

1  請求原因3(一)の事実は当事者間に争いがない。

2 被告の主張1(労災保険法四二条の法的性格)について

被告は、労災保険法四二条は、労災補償保険給付請求権の除斥期間による消滅について規定したものであると主張するので、この点について検討する。同条は、文言上明確に「時効」と規定しており、また同法三五条二項は、保険給付決定に対する「審査請求又は再審査請求は、時効の中断に関しては、これを裁判上の請求とみなす。」と規定し、障害保険給付を受ける権利について、時効の中断に関する規定を置いているのである。このような明文に反して労災保険法四二条所定の期間を除斥期間と解する根拠はなく、右規定は、労災障害保険給付請求権の時効消滅について規定したものと解すべきである。

3 請求原因3(二)及び被告の主張2(消滅時効の起算点)について

(一) 右2のとおり、労災保険法四二条は労災障害保険給付請求権の消滅時効についての規定であり、右の時効期間の起算点について明文の規定がない以上、起算点は、民法一六六条の一般原則に基づき、権利を行使することを得る時点である。この「権利を行使することを得る時」とは、権利の行使について法律上の障碍がなくなった時と解すべきであるから、当該権利者が事実上権利の存在することを知らず、権利を行使することができなくとも時効期間は進行する。

ところで、労災障害保険給付請求権は、労働者が業務上負傷し、又は疾病にかかり、なおったとき身体に障害が存する場合に発生し、これを行使することが可能となる。そして、右の「なおったとき」とは、当該傷病の症状が安定ないし固定し、医学的にさらに治療を継続しても症状の改善が期待し得ない状態になった時、すなわち、症状固定時と解するのが相当である。

(二) 原告は、労災保険法四二条の消滅時効は、民法七二四条の類推適用により、当該労働者が当該障害の存在及びその業務起因性を認識したときから進行すると主張する。しかし、労災障害補償請求権は、労働災害に遭遇した労働者をおしなべて救済するという社会的要請に基づく社会保険政策上の見地から、当該労働災害につき使用者側の帰責事由の有無を問うことなく、補償給付を行おうという社会保険政策上の見地から特に制度化された公法上の権利であるから、公法上の権利関係の早期確定、平等で画一的な処理の要請に鑑みると、時効期間の進行の有無を、被災労働者の当該障害の存在及びその業務起因性の知不知という主観的事情にかからしめるような解釈は相当ではなく採用できない。

また、民法七二四条が短期消滅時効の起算点を損害及び加害者を知った時としたのは、一般に不法行為が偶然遭遇する第三者によるものであり、また、故意による場合隠密裡に行われることが多いため、加害者あるいは損害が直ちに知り得ないことから定められた被害者保護のための特別規定であり、これに対して、労災障害補償請求権の場合、労働災害は、特定の雇用契約関係の下で生じるものであり、また、当該労働者は、使用者、職場の作業内容、作業環境を当然認識しているのであるから、加害者及び損害を直ちに知り得るうえ、その業務起因性についても常識的判断で嫌疑を抱くことは十分可能であって、速やかに専門医の診断を経て権利行使をすることが可能であること等に鑑みると、労災障害補償請求権と不法行為による損害賠償請求権とは権利行使の難易等に差異があり、両者を単純に同視することはできない。

加えて、労災障害補償請求権を行使する場合、当該労働者は、最初の請求手続を行いさえすれば足り、所轄労働監督署の調査事務に属する損害の発生、業務起因性等については、自ら積極的に証拠を収集する必要はないから、この点でも、被害者が自己の責任負担で収集した証拠に基づき、訴え提起が合理的に可能である程度に賠償請求権の存在を確知しなければ行使できない不法行為による損害賠償請求権とは異なる。

以上の理由から、労災保険法四二条の消滅時効について、民法七二四条を類推適用するのは相当ではないと解する。

4  被告の主張3について

(一) 前記二5の認定によれば、騒音性難聴は、騒音職場離脱後は増悪しないことが認められる。また、<書証番号略>によれば、騒音性難聴は、治療の方法がなく、治癒の可能性がないことが認められるから、騒音職場離脱時に症状が固定するといわざるを得ない。

(二)  もっとも、<書証番号略>によれば、「新労働衛生ハンドブック」においては、「長時間にわたる騒音暴露の結果起きた聴力低下には一時的聴力損失を含んでいるから、永久的聴力損失は騒音暴露中止後数週間ないし数ヵ月後に、これ以上聴力の改善がないという時点で決定される。」との記載及び「補償費を支給すべき時期は転、退職後で症状が固定したとき(ほぼ三か月後)とする。」との記載がされていることが認められる。

(三) しかし、同時に、右文献においては、「暴露終了後四〇時間以上たった後の聴力低下を永続的聴力損失という。」としていることを考慮すると、右文献においても、一時的な聴力損失が回復するために必要な期間としては、極めて短時間であることを前提にしつつ、なお永久的聴力損失の確定診断には慎重を期してほぼ三か月後に行うとしているにすぎないと解される。そして前記二5記載の研究結果によっても、騒音職場離脱後の聴力損失の変化がほとんど認められていないのであるから、騒音性難聴の症状固定時期は、騒音職場離脱時であると解するのが相当である。

(四) なお、原告の聴力損失は、前記二2(一)ないし(三)の認定によれば、騒音職場離脱後に増加したことが認められるが、右の増加は、加齢等の他の要因によるものと推認すべきことは前記二5のとおりである。したがって、右のような聴力損失の増加は、騒音性難聴の症状固定時期に関する右の判断を左右するものではない。

(五) そして、被告の主張3(一)の事実のうち、原告が、昭和五七年六月一九日にアイサワ工業日高作業所で離職したことは当事者間に争いがないから、右の時点で原告の難聴の症状は固定したということができる。そうすると、原告の騒音性難聴に関する労災保険法四二条の消滅時効期間は、右時点から進行を開始することになるところ、現実に、原告において右時点から本件申請を行うことが不可能であったということはできない。すなわち、前記二2(二)認定のとおり、原告は、既に昭和五二年ころから、耳が聴きづらくなり、他人からも耳が遠いのではないかとの指摘を受けていたのであるから、原告が昭和五七年六月一九日の職場離脱時において、前記一2の騒音職場における業務が原因で自己の聴力が損失したことの認識を有することが可能であったと認められる。また、<書証番号略>及び原告本人尋問の結果によれば、原告は、昭和五八年九月五日、自ら振動障害による休業補償給付の申請をしたことが認められるから、原告の能力、成育環境や労働環境を根拠に、原告が右職場離脱時において、補償給付の申請をすることが不可能であったということもできない。そして、被告の主張3(二)(五年間の経過)の事実は当裁判所に顕著な事実である。

(六) そうすると、昭和六二年七月二〇日に行われた本件申請は、原告の騒音性難聴の症状固定時(騒音職場離脱時)である同五七年六月一九日から起算してすでに五年を経過した後になされたものであるから、労災保険法四二条所定の消滅時効完成後の申請というべきである。

5  請求原因3(三)(信義則違反)について

原告は、被告側が難聴の事実を知りながら、原告にこれを秘匿しまたは告知せず、その結果原告の権利行使の機会を奪ったことは被告側の重大な義務違反であるにもかかわらず、被告が原告の権利の時効消滅を主張することは信義則に反し、本件処分は信義則違反によって違法であると主張するので、この点について判断する。

<書証番号略>、原告本人尋問の結果によれば、原告が、昭和五七年五月一〇日岡山労災病院において古本雅彦医師による聴力検査を受け、両耳共中等度の難聴がある旨の診断を受け、同五八年一一月四日所沢労働基準監督署が、原告の振動障害による休業補償給付請求の申請に基づいて同病院に意見書の提出の依頼をし、同年一一月二一日同病院長が同医師の聴力検査により原告には両耳共中等度の難聴があるとの所見があった旨を同監督署に回答していることが認められる。

しかし、右原告の申請は、あくまで振動障害による休業補償給付請求の申請であって、所沢労働基準監督署は、専ら原告の申請が右給付の要件に該当するか否かを判断すれば足り、原告に対し右病状を告知する義務を負うものではない。したがって、所沢労働基準監督署が原告に難聴があることを告知しなくとも義務違反があったとはいえない。

なお、原告は、昭和五八年五月に岡山労災病院において聴力検査を受けた際医師から「耳は悪くない。」と言われたとの供述をしているが、右のとおり中等度の難聴であるとの検査結果を得ながら、医師が右のとおり回答する合理的理由もないことを考慮すると、原告の右供述はただちに信用することはできない。そして、ほかに、被告らにおいて、ことさら、右の検査結果を秘匿して原告の権利行使の機会を奪ったことを認めるに足りる証拠はない。

したがって、被告が、消滅時効が完成したことを理由として、原告に対し障害補償給付を支給しないとした本件処分は信義則に反するものとはいえない。

四以上の次第で、被告が原告の本件申請について、労災保険法四二条により消滅時効完成を理由としてなした本件処分は、適法というべきである。よって、原告の請求は、理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法七条、民訴法八九条を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官塩谷雄 裁判官都築政則 裁判官田中千絵)

別紙<省略>

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